坂下門外の変 (サカシタモンガイノヘン)
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1862(文久2)年宇都宮の大橋訥庵ら尊攘派による老中安藤信正襲撃事件。桜田門外の変後、老中久世広周と共に幕府の実権を握った安藤は、攘夷論にかわって公武合体論を推進。その具体策として和宮の御降嫁が進められた。これに対し、尊王攘夷派志士らは憤激。
攘夷派の水戸藩士らは、暗殺計画を大橋訥庵を中心とする宇都宮藩の一派と手を組み進行。幕府は十年以内に滅びる運命にあると断じた大橋訥庵は、かかる妥協策は共倒れを意味するものであるとし、幕府を捨てることが難局を打開する鍵であるとし、1861(文久元)年秋より、和宮御降嫁阻止、公武合体破砕の実践活動に乗り出した。9月「政権恢復秘策」の朝廷への意見上申を皮切りに日光輪王寺宮擁立挙兵、次いで一橋慶喜擁立運動を画策し、江戸郊外小梅村の訥庵の寓居を中心に水戸・真岡・宇都宮・間々田粟宮の間を常陸・武蔵・下野の草葬の志士が頻繁に来往したが、両度の運動共にみのらず、11月には公武合体策の推進者老中安藤信正を除く策に転じた。
1862(文久2)年宇都宮で死士壮行の宴を張り、それぞれ江戸に潜入し、正月15日、刺客6名は坂下門外で安藤信正を襲い斬死した。安藤は事なきを得たが失脚し、この事件を契機に公武合体策は破綻する。
この事件の下野関係者は、真岡の小山春山、小宅文藻、河野守弘、同通桓、横田祈綱、同昌綱、都賀瑞穂野の川連義路、宇都宮の菊池教中、児島草臣(強介)、中里主税、宇都宮藩士戸田忠厚、間瀬忠至、県信緝・岡田真吾、松本鎖太郎、矢島正恒等がいる。