徳川家康 (トクガワ イエヤス)
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1542~1616(天文11~元和2)年。三河岡崎城主松平広忠の嫡男。幼名竹千代。
幼時、織田・今川両氏の間にあって人質として辛苦をなめた。1590(天正18)年秀吉に従って後北条氏を小田原に攻め、関八州を与えられ江戸を居城とした。
秀吉の没後、1600(慶長5)年関が原の戦に勝利の後、天下の勢望自ら家康に帰し、1603(慶長8)年征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開き、将軍職を辞した後も駿府にあって大御所として威権をふるい、1616(元和2)年4月17日、75歳で駿府城に没した。その遺言により直ちに久能山に神葬、翌年日光東照宮に祀られ、以後、日光山は幕府の聖地となった。
没後朝廷から正一位の神位並びに東照大権現の神号が贈られた。信長、秀吉の後を受け、永い戦国争乱の世を収めて、江戸300年太平の基を開いた功績は高く評価されている。
家康は晩年天海の法論を聴いて重く用い、1613(慶長18)年天海に日光山を与え、荒廃した山中の復興に意を尽した。
尚、家康が臨終に際し、その没後日光に祀るべく遺言した理由として、①日光山は関東北部に於いては早くから開けた信仰の大霊場であったこと、②源氏を出自とする徳川家にとって同族の棟梁であり、又武将として尊敬する源頼朝が日光山に対して信仰が篤かったことに倣った、③家康が晩年信任した天海が日光山の貫主であったことなどの諸点が考えられる。