橋本邦助 (ハシモトクニスケ)
詳細
住所 |
〒 328-0016 栃木県栃木市 |
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1884~1953(明治17~昭和28)画家、栃木市生まれ。県立栃木中学校(現栃木高校)2年修了後上京して白馬会溜池研究所で絵を学ぶ。
翌1901年(明治34)東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学、成績優秀により2年短縮されて1903年(明治36)卒業。翌年から1年間報知新聞社で絵画を担当。
1905年(明治38)和田三造らと美術雑誌「L・S」を創刊。1907年(明治40)東京府勧業博覧会に油絵の「風景」を出品して最高賞の2等賞を受賞。
同年10月第1回文部省美術展覧会(文展)で3等賞。第2回、第3回文展でも連続3等賞を受賞、皇室買上げとなる。1910年(明治43)から1年間パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。
1913年(大正2)第7回文部省美術展覧会(文展)日本画部に2点を出品。このころからの作品は日本画が多くなる。
1917年(大正6)第11回文展出品の二曲一双屏風「菊花の秋」が皇室買上げとなる。1925年(大正14)帝国議会歴代議長の肖像画のうち星亨の肖像画を依頼により制作。
1943年(昭和18)ごろまでは帝国美術院展覧会(帝展)、文展等に出品を続けていたが、それ以後はほとんど活躍せず、1953年(昭和28)1月7日死亡。
1907年の東京府勧業博覧会と、同年秋からはじまる文展の初期の時代には、橋本邦助は青木繁や小杉未醒らと同等または上位の評価を受けていた。しかし、その後日本画に転じたことと、1944年(昭和19)長野県の上山田温泉に疎開し、翌年文京区曙町の家が空襲で焼けたため帰京が遅れ、1951年(昭和26)になってやっと上京するが翌年病に倒れ、遂に戦後の画壇に復帰できなかったことが、橋本邦助の名を世間から忘れ去らせる原因となった。