那須氏 (ナスシ)
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平安時代末期から江戸時代初期まで那須郡内に栄えた豪族。藤原道長の孫通家の子貞信を祖とし、元は須藤氏を称していたが、那須資隆の時、那須氏を称したとされる。源平合戦に、那須高館城主資隆の子与一宗隆が源義経に従って出陣し、屋島の戦いで扇の的の功名により基盤を確立した。光資のとき、1193(建久4)年、頼朝の那須野巻狩における準備と経営の功績によって、御家人(那須の地頭となる)の地位を得た。南北朝時代は足利尊氏に、また、室町時代には関東公方足利氏に臣従した。応永年間、那須氏の内紛によって上の庄(福原)那須氏と下の庄(烏山)那須氏とに分裂した。その後永正年間、上那須氏が家臣の大田原氏らの策謀によって滅亡したため、下の庄の資房が那須氏を統一するところとなり、戦国大名として領国経営にあたった。戦国期の那須氏は、古河公方足利氏や北條氏・上杉氏などの大勢力と、東の佐竹氏、北の芦名・結城氏、南の宇都宮・小山氏などと離合集散をくり返しながら、その存在を確保した。合戦においては少数であっても常に勝利を得てきたが、下剋上の世相は那須氏にもおよび、大田原・大関氏などの台頭を促した。1590(天正18)年、秀吉の小田原北条攻めにあたっては、資晴が参謁しなかったため、8万石の所領は没収されるところとなり、名門那須氏も没落した。資晴は那須氏の旧領福原(佐良土)に隠退したが、その子資景は関ヶ原の戦いや大坂の陣の功によって江戸時代には1万4千石の大名になる。その後1681(天和元)年資祗は2万石の大名として父祖累代の旧領烏山城主となったが、その後、家督問題により断絶した。