曲直瀬道三 (マナセドウサン)
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詳細
住所 | 栃木県足利市 |
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1507~1594年(永正4~文禄3)安土・桃山時代の医師。名は正盛(正慶)、字は一渓道三と号する。また、翠竹斎・蓋静翁と号する。幼い頃父母に先立たれ、伯母と姉に養育された。
10歳で僧籍に入り22歳の時、(現・栃木県足利市)にある足利学校に学んだ。学校は第6世の庠主文伯の時代で、いま、足利学校に現存する孔子像は、このころのものである。
25歳の時「導道練師」と称し名声が高かった田代三喜に入門、以来10数年、師事し修業に励んだ。一渓の業績中、注目すべきことは、師である三喜の説すなわち李・朱の医学を普及させたこと、当時の将軍や戦国武将の多くを診療・治療して功があり厚遇されていた点である。とりわけ豊臣・徳川の両氏は再三、一渓を召しかかえようとしたが一渓は、これを固く辞して医道に没頭した。なお、一渓の生涯中、特に注目されるのは私費を投じて医学校=啓廸院を建て後進の指導にあたったことであろう。
彼のもとから優秀な門下生が輩出していったことはいうまでもない。また道三は、計4回も中国地方に下向し、毛利元就を診療するほか、足利将軍(義輝)の内命をうけて安芸・出雲和平工作・調停にあたったこと等があきらかとなっており、医師道三としての姿とは別のもう一つの姿がここにあった。
文禄三年(1594年)一月四日八十八歳で永眠、京都十念寺に奥津城がある。