薬師寺公義 (ヤクシジキミヨシ)
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生没年不詳。南北朝時代の武将・歌人。薬師寺氏は小山氏の支族。その居館跡は河内郡南河内町に残り,土塁・空堀がわずかに往時をしのばせている。公義は,高師直に仕え武蔵国の守護代と国司代も兼任していた。また,武将として軍功をつんだことも注目できる。公義は1351年(観応2)2月,兵庫御影浜での合戦(足利尊氏・執事高師直対足利直義)の際,主人師直への諫言が容れられず,ついにこれを見限り出家し高野山へ登った。その高師直の横死後は薬師寺氏は下野宇都宮氏・細川氏に属して活躍した。また,公義は私家集『元可法師集』1巻を残している。元可とは公義の法名である。さらに公義は『太平記』によれば,高師直が塩冶高貞の妻に思いこがれ兼好法師に依頼して和歌をおくらせた艶書事件にも関係した。結論からいえば,この師直のもくろみは失敗し兼好法師はしりぞけられた。代って公義が和歌を1首したためおくり,高貞の妻が返歌の代りに言い放った「重が上の小夜衣」の解釈をめぐり『新古今集』の和歌を引用し高貞の妻の貞節ぶりを説明し,かえって主人師直から「鳴々,御辺ハ弓箭ノ道ノミナラズ歌道ニサエ無双ノ達者也」(『太平記』)と激賞の言葉をいただき,黄金造りの太刀一振を賜わったという。